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中世以降は吉田家も「宗源宣旨(そうげんせんじ)」といわれる宣旨で神階を発行するようになった。
宗源宣旨は当初は天皇の勅許の下に発行されていたが、のちに吉田家が独自に発行するようになった。
江戸時代の寛保3年12月15日(1744年1月29日)、桜町天皇と関白一条兼香は神階の授与に関する最終決定は勅許によるものに限定し、吉田家による宗源宣旨の発行は停止されて同家は天皇への執奏のみを行うこととされた。
京都所司代牧野貞通や寺社奉行大岡忠相もこれを承知していることから、決定については江戸幕府の同意を得ていたと考えられている。
また、江戸幕府も神階授与に関与していた形跡があるが、あくまでも幕府が主体となって神階授与を働きかけた際に主導的な役割を果たしたものであると考えられ、幕府との関係性が薄い地方の神社の神階授与までは関与しなかったとみられる。
前者の場合には幕府からの下行米が朝廷に贈られることがあったが、後者は原則として神社側の費用負担が前提になっていた(これに対して、神号授与に関しては江戸幕府の同意が必要であった)。
江戸時代を通じて神階授与が65件しか確認されない(うち27件が1850年代以降に集中している)のは、神社側の負担の大きさも影響しているとみられている。
神階の制度は明治時代に廃止されたが、現在も社名に神階をつけている神社がある。
六国史終了時点での神階一覧.
六国史終了時点(887年)での各神の神階の一覧。
文位(位階) 一覧 六国史終了時点の従三位以上の位階の一覧。
なお、六国史以後の濫授の結果、現在では非常に多くの神社が正一位に達している。
神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名(複数のものは論社)。
なし(位階を超越) 正一位 従一位 正二位 従二位 正三位 従三位 武位(勲位) 一覧 六国史終了時点の勲七等以上の勲位の一覧。
神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名(複数のものは論社)。
勲一等 勲二等 勲三等 勲四等 勲五等 勲六等 勲七等 品位 一覧 六国史終了時点の品位の一覧。
神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名。
一品 二品 諸神同時昇叙.
平安時代中期以降には、諸神に対する同時昇叙の例があった。
文献に見える昇叙例は次の通り。
諸神同時昇叙において、嘉祥4年(851年)には既に従五位下以上の諸神には一階を増し、大社並の名神は無位でも従五位下を授け、これ以外の無位の諸神を正六位上に叙した。
こうした諸神増一階はその後、天慶3年から永徳元年(平安中期から室町初期)までに9回行われたという。
室町時代中頃以降の初叙には年代通算相当の位階を奉ったが、その場合には貞観・寛平・元亨年度の加算を除くことが例とされた。
なお神階で諸神序列が進んだ時代には、貞観元年(859年)の清和天皇の時を初例とし仁和2年(888年)に制度化された「一代一度大神宝使の制」があった。
これは、天皇の一代一度に、即位大典ごとに伊勢大神宮並びに五畿七道各国の諸名神に神宝・御幣を捧げて即位を告げたものである。
朝廷から奉献対象は66カ国のうちから京畿七道の50社で、鎌倉時代中期まで継続したという。
「一代一度大神宝使」発遣の儀礼内容は、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条などに詳述されている。
中村 龍史(なかむら りょうじ、1951年3月25日 - 2020年1月22日)は、日本の俳優、演出家、振付師。
東京都台東区出身。
来歴. 1971年、劇団四季俳優養成所を卒業し、劇団四季入団。
1981年退団。
その後主にショーの構成、振付、演出を手掛ける。
数多くの歌手、ミュージックグループのコンサートでキャリアを重ねる。
松任谷由実は1984年日本武道館公演『YUMING VISUALIVE DA・DI・DA』から1995年『THE DANCING SUN』まで担当した。
1990年、東京パフォーマンスドール(TPD)の立ち上げに参加し、構成、振付、演出を担当。
解散まで全てのステージを手掛けた。
1993年デビューの大阪パフォーマンスドール(OPD)と1996年デビューの上海パフォーマンスドール(SPD)も立て続けに担当した。
1995年には『楽園伝説』(西田ひかるミュージカル初主演)で演出。
1997年のなみはや国体では、開会式の構成、振付、演出を担当。
宝塚歌劇団の初演出となった。
2001年からは『マッスルミュージカル』の構成、振付、演出を担当。
2007年9月9日、マッスルミュージカルの構成、振付、演出を降板。
2008年、マッスルミュージカルを降板したメンバーらと共に「中村JAPANドラマティックカンパニー」を旗揚げする。
2020年1月22日死去。
相模原(さがみはら)は、神奈川県相模原市中央区にある町名である。
郵便番号は252-0231。
また、同市内のJR東日本横浜線相模原駅周辺の漠然とした地域名として用いることもある。
JR横浜線相模原駅南口前を中心としてJR横浜線と国道16号の間に広がる区域であり、一丁目〜八丁目からなる。
1964年(昭和39年)5月1日に相模原市で最初に実施された住居表示により大字小山および大字清兵衛新田の各一部から成立した。
相模原駅周辺には銀行や企業の事務所などが集まり、市役所が所在する中央地区とともに相模原市の中心業務地区となっている。
駅周辺には多くの飲食店が集積し、1970〜80年代には大型商業施設が2店舗(ダイエーおよび忠実屋)進出するなど、同市の中心商業地となっている。
1990年代以降に再開発が行われた相模大野や橋本の成長によってその地位は低下したものの、 相模原2丁目、同3丁目は暴力団排除条例に基づき暴力団排除特別強化地域に指定されている。
区域内には江戸時代末期の新田開発によって開かれた清兵衛新田への入植者の集落が含まれるが、現在は全域が市街地化して農地は消滅しており、農村的景観はほとんど失われている。
国道16号に面した区画にはレジャー施設や釣り具店などのロードサイド店舗が多く進出している。
在日米軍相模総合補給廠正面入口前の大通りに面し、通りを挟んで隣接する矢部一丁目にまたがる西門地区は、元は基地労働者向けの飲食店街として成立したが、現在では徒歩圏内の住民を相手とする日用品小売商店街となっている。
駅や大通り、およびこれらの商業施設から離れた区画は住宅地となっている。
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、相模原2-20-4の地点で24万2000円/mとなっている。
相模原という地名.
相模国高座郡の北部から中央部を占める台地上の原野は古くは相模野と呼ばれた。
江戸時代には周辺農村の草刈り場として台地上に設定された入会地の総称として用いられ、地形について述べる際に用いられる「相模野台地」という呼称もこれによる。
それに対して、相模原という呼称の使用例は比較的古い史料には見られないようである。
住居表示以前の地籍図に記載されている小字名等を収録した『土地宝典』(1963年)には大字淵野辺およびここから分立した大字大沼に「相模原」という小字名が見られる。
また、大字上溝の字戌四号 に含まれる区域の古い小字名として「相模原」と記載しているものがある。
さらに「相模原軍都計画」に基づき1940年代に実施された区画整理事業以前の地図では、1889年(明治22年)の明治の大合併の際に溝村(1926年に町制施行し上溝町)に編入された旧田名村の飛び地 について「相模原」という小字名が記載されている。
ただし、これらの「相模原」という地名がいつ頃から用いられていたかは明確ではない。
1930年代後半以降、現在の相模原市域への陸軍施設の進出が相次いだが、それらの中には相模原陸軍病院(1940年(昭和15年)の開設当初は原町田陸軍病院。
在日米陸軍医療センターを経て現・グリーンホール相模大野ほか)などのように「相模原」を称するものがあった。
1938年(昭和13年)に臨時東京第三陸軍病院(現・国立病院機構相模原病院)が開設されると、付近を通過する小田原急行電鉄(現小田急電鉄)が小田原線上にこの病院への下車駅となる相模原駅を開業した。
ただし、これらはいずれも現在の相模原市南区の小田急線沿線に当たる。
相次ぐ陸軍施設の進出を背景にそれらの施設が集中する高座郡北部の上溝町、座間町ほか6村の合併による新都市建設への動きが活発化し、新自治体の呼称としてさまざまな候補の中から選ばれたのが「相模原」であった。
これら2町6村の合併により1941年(昭和16年)4月29日に高座郡相模原町が発足した。
1954年(昭和29年)11月20日に相模原市となる(旧座間町は1948年(昭和23年)に再分離し、現座間市)。
相模原町発足に先立つ同年4月5日、省線横浜線上に相模原駅が開業した。
この駅は軍都計画によって建設される新都市の中心駅として設定されたものである。
省線相模原駅の開業にともない、同日、小田急線の相模原駅は小田急相模原駅と改称した。
省線(国鉄)相模原駅の開業後、駅前に市街地が徐々に形成されたが、特に1954年4月に町役場(現市役所)が現在地に移転し、同じ頃に神奈川中央交通の営業所が駅前に移転して市内各地へのバス路線のターミナルとなると市内の中心商業地として発展した。
1964年(昭和39年)に相模原市で住居表示を実施するにあたって最初の事業対象区域として市役所周辺とともに相模原駅周辺が選ばれ、同年5月1日、大字清兵衛新田と大字小山の各一部から相模原一丁目〜相模原八丁目が編成された。
世帯数と人口. 2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年2月時点)。
事業所. 2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
事業者数の変遷.
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷.
経済センサスによる従業員数の推移。
ロック郡 ("Rock County") はアメリカ合衆国内のいくつかの郡の名称である:
行慶(ぎょうけい、康和3年(1101年) - 永万元年7月16日(1165年8月24日))は、平安時代後期の天台宗の僧。
父は白河天皇、母は備中守源政長女。
狛僧正、桜井僧正とも呼ばれる。
出家して園城寺に住し、大治3年(1128年)には大僧正に昇った。
その後、保延元年(1135年)に四天王寺別当、仁平2年(1152年)には園城寺長吏に任じられている。
近衛・後白河・二条三代の天皇の護持僧となるが、特に後白河院からは譲位後も厚く信頼されていた。
その一方で応保2年(1162年)に前関白藤原忠通が出家した際には御戒師も務めている。
西村 英一(にしむら えいいち、1897年8月28日 - 1987年9月15日)は、日本の政治家。
自由民主党衆議院議員(当選11回)。
閣僚として厚生大臣、建設大臣など、また党職として自民党副総裁を務めた。
田中派(七日会)初代会長。
「おじいちゃん」の愛称で知られ、佐藤栄作、田中角栄両元首相に対するご意見番的存在であった。
大分県東国東郡姫島村出身。